三田市は、はるか数万年前の旧石器時代から人々が暮らし始めた記録が残っている、兵庫県の南東部に位置する豊かな自然にめぐまれた田園都市です。市域の北部と東部は山岳地帯、北西から南東にかけて貫流している武庫川流域に農村地帯が広がり、武庫川南端の平野部には中心市街地、同丘陵地には北摂三田ニュータウン(現神戸三田国際公園都市)が形成されています。
三田市街に関しては、奈良時代に現在の金心寺につながる「門前町として、又、南北朝時代に「城下町となり、江戸時代には三田藩九鬼氏および麻田藩青木氏の支配となり大いに繁栄したと伝えられています。更に、明治時代には郡役所の設置や鉄道の開通などにより、当時の近隣を含む有馬郡の中心地として、より一層の発展をとげています。その後、1958年(S33)7月に市制が施行され現在に至っています。
三田農業に関しては、特産物として、三田牛、太ねぎ(極ぶとくん)、うど、母子茶(もうしちゃ)、母子そば、ハウストマト、オクラ、ピーマン、三田米、黒大豆枝豆、山の芋等があります。いずれも、絶品です。
ニュータウンに関しては、急激な高度経済成長のなか、大阪・神戸の大都市への通勤圏にある居住地域として見直されるとともに自然豊かな郊外生活へのあこがれが強まり、1969年(S44)に北摂三田ニュータウン(現神戸三田国際公園都市)計画が発表され開発が始まっています。そして、フラワータウン(337ha)が1982年(S57)4月に、ウッディタウン(587ha)が1987年(S62)3月に、カルチャータウン(150ha)が1992年(H4)4月に街開きしました。JR複線化や高速自動車道網などの大規模なインフラ整備も合わせて行われ交通利便性の良い且つ美しい閑静な街並みが形成されています。そして、カルチャータウンには教育・文化を分担する住宅地として大学や高校も立地しています。加えて、ニュータウン開発の一角を占めるテクノパーク(136ha)には、交通利便性の良さ、職住隣接及び自然環境に恵まれた工業団地として人気となり40社を超える優良企業が立地するに至っており、現在引き続き、第2テクノパーク工業団地の開発が進められています。
三田市では、このような地域特性を踏まえ、「心のふれあう田園文化都市」を目標に、市街地、農村、ニュータウンがともに連携・交流し、一つの都市として輝くという思いで「人と自然が輝くまち・三田」の実現を目指しています(三田市総合計画「輝き三田21」2002年策定)。このような都市づくりが進む中、三田市の人口は、市制が施行された年で約3万2千人、ニュータウンへの入居が1981年(S56)から始まったことにより1987年(S62)年からの10年間は連続して人口増加率日本一を記録し、2020年の人口は約11万2千人となっています。
三田の地名の由来
三田の地名はどうやって名付けられたのか大変興味のあるところです。有力な説は、市内の古刹・金心寺に安置されている重要文化財「弥勒仏坐像」の胎内に刻まれていたと伝えられる文言、「当地一帯を松山の庄と号す、これを金心寺恩田・悲田・敬田の三福田をもって三田と改む」に由来するとされています。ここで言う三福田とは、3つの心、すなわち、恩を忘れない、助け合う、敬う心を意味するとされ、先人達がこの地に託した思いが偲ばれます。